嵯峨野観光鉄道株式会社 SAGANO ROMANTIC TRAIN

嵯峨野観光鉄道物語

1. 四半世紀で地球約16周分

開業25周年記念
ヘッドマーク

開業25周年記念セレモニーにて

西田社長の挨拶

 今年(2016年)の4月27日で嵯峨野観光鉄道は開業25周年を迎えた。4月30日(土)に観光客でにぎわうトロッコ嵯峨駅駅舎において25周年記念セレモニーが開催された。

 嵯峨野観光鉄道が開業したのは平成3年(1991年)。平成元年のJR山陰本線のルート変更で廃止された旧線路が、かつて保津川渓谷沿いの景勝地を縫うように走っていたことから、トロッコ列車を走らせることになったわけである。親会社のJR西日本は「3年やってダメなら撤退する」との考えで準備を進めた。開業初年度の乗客数は、当初の需要予想の2倍を超える69万人に達した。現在は、年間123万人が利用する京都観光の人気スポットだ。

 開業準備を進めた長谷川初代社長はセレモニーの挨拶で「全力投球で開業準備に挑みました。当時のことを思うと万感の想いが胸に迫ります。開業時は、トロッコ亀岡駅には駅舎も駅員もなし。沿線の植樹は、万一トロッコが廃線になっても思い出の証しにしたい、と始めました。それが今まで続いたのも皆様のご支援のお蔭。今では日本で有数の観光鉄道になりました」と胸の内を語った。

 トロッコ嵯峨〜トロッコ亀岡駅間の営業キロは7.3km(JR乗入れ区間を含めると8.2km)。25年間で63万kmを走ったことになる。地球約16周分に相当する。しかしその始まりは容易なものではなかった。

2. たった9人の旅立ち

当時の思い出を語る
初代社長・長谷川

工場で整備中の
ディーゼル機関車

桜守・佐野藤右衛門氏の
協力を得て桜を植樹

地域の人々を交えて植樹

 保津川渓谷沿いを走る旧山陰本線は風光明媚で、明治時代に多大な労力をかけて拓いた鉄道遺産でもある。廃線となった嵐山〜馬堀駅間を、観光鉄道として甦らせる大任を仰せつかったのは、長谷川初代社長と8名の部下、計9名。「観光資源として生かしてほしい」という京都府知事や鉄道ファンの熱い思いに後押しされていたものの、当事者たちは左遷同様の配属に悔しさを隠しきれなかった。従業員9名、資本金2億円、年間乗降予測26万人、開業までたった1年。託された人材も、資金も、時間も少ない逆境からのスタートに、長谷川の不屈魂は燃えた。

「やってやろうじゃないか」

 持ち前の破天荒さで、トロッコ列車に全てをかける決意をした長谷川と8名の社員は立ち上がった。目標はただひとつ。保津川沿線の景観を楽しんでいただける観光列車をめざす。毎朝午前6時に出社し、独りで線路上の除草を始めた。

 トンネルや橋に崩れは見られなかったものの、廃線後の時の経過からレールは錆び、枕木は腐食、路肩は崩れて線路には雑草が伸び放題。かつて美しい景観を走る線路の姿は、そこにはなかった。資本金は駅舎の整備や車両等の設備投資に充てると残りはわずかしかなかった。社員たちが「ほんとうに可能なのだろうか」と途方に暮れるなか、営業企画はもちろんのこと気の遠くなるような雑木伐採、線路の補修や土木工事、と出来る事は長谷川が率先して取り組んだ。その姿は徐々に社員の心を掴み、いつしか社員一丸となって準備作業に没頭していた。

 1日に3~4時間が体力の限界という除草作業を皆で重ね、やっとトロッコ嵐山からトロッコ亀岡の間の延長7.3kmに植樹ができるようになった。桜やもみじなどの植樹に取り組んだ。「将来はピンクの桜のトンネル、新緑や紅葉のもみじのトンネルをトロッコ列車がくぐって、お客様に感動を与える」。そんなイメージを描くと植樹後の養生作業も苦にはならなかったという。

 何が始まるのか見ていた地域の人々もひたむきな姿勢に協賛し始めた。「お客様に喜んでいただくんだ」。そんな想いが重なった時、地域の人々は強力なサポーターとなった。

3. うれしい誤算

開放感いっぱいの5号車
ザ・リッチ号

ザ・リッチ号から
保津川渓谷を望む

懐かしい趣の裸電球

回想する長谷川初代社長
(トロッコ内にて)

京都の街を精密に再現した
ジオラマ

迫力のデゴイチ
その奥はベーゼンドルファーのピアノなど
近代文化遺産を展示する19世紀ホール

 平成3年(1991年)4月27日9時35分、晴れてトロッコ列車第1号が発車した。9人の団結と、地道な取り組みにより、初年度の乗客数は予測の2倍強、69万人を超えた。

 しかし「開業後の3年が勝負だ」と考えていた長谷川は、トロッコ列車の旅をお客様の心に残る30分にするためオンリーワンのおもてなしを発信しようと社員に提案した。「自然を体感できる観光列車がテーマだ。通勤列車じゃないんだから、不器用でもいい。お客様との触れあいを大切にできるサービスを実行しよう」との掛声のもと、社員は様々なおもてなしの方法を考えた。

 その結果、走行中に歌の得意な車掌が歌をプレゼントしたり、酒呑童子が突如現れたり、風景の美しい所で一時停車するなどの型破りなサービスを始めた。結果は上々、人の温もりが感じられると好評で、トロッコ列車の名物となった。

 またザ・リッチ号(5号車)の導入も時流に逆らう試みであった。窓ガラスの入っていない車両には風雨が入り込み、板バネに木製の椅子で乗り心地は悪い。足元から下が透けて見え、鉄橋を渡る時はヒヤリとする。裸電球でエアコンなどついていないが、保津川渓谷の季節の移り変わりを身体全体で感じとれる。ガッタンゴットンという懐かしい車両の音も聞こえる。あえてアコモデーション(車内装飾)に手を加えず五感を研ぎ澄ませて楽しんでもらいたいと考えた。

 さらに「19世紀ホール」や「ジオラマ京都JAPAN」の建設等、いつ来ても楽しめるテーマパークをめざして施設の充実を図った。

 さらに社員たちは日々営業に汗を流し、話題性のあるイベントを考えて、国内外に積極的なPR活動を行った。

 例えば、地元寺院の提案を受けで阪神大震災の被災児童を招待したり、地元の高齢者や障がい者を社員に採用したりといった活動も進めた。一方で駅舎に立看板を掲げ、東日本大震災の被災地に向けた台湾の義援金に対して感謝の気持ちを示すなどの手作りの発信活動も続けた。

 明確なテーマのもと、おもてなしの心が伝わるサービスで、常に新鮮な情報を発信しようと努力を重ねたことが国内外からの誘客に繋がった。いつの間にか「嵐山といえばトロッコ列車」といわれる京都観光のスポットとなっていった。

4. 新たな決意、次のステージへ。

将来展望を語る
現社長・西田

線路の点検をする
社員たち

中が外から見える
ジオラマ京都JAPAN

山鉾巡行を
ジオラマで再現(左)
鉄道写真家 清水薫先生の写真展示(右)

明日を見つめる西田社長

 昨年春、現社長・西田は、大鉄工業㈱から抜擢され新社長に就任した。大鉄工業は、JR西日本の大動脈を高度な保線等の建設技術で支えている会社だ。

 技術畑で育ち、かつて嵯峨野観光鉄道の補修工事にも関わった西田は、長谷川初代社長たちの苦労をねぎらう。「それはもう大変なご苦労があったと思います。先輩たちの心強い取り組みのお陰で2015年度の乗客数は過去最高の約123万人、今年は更にそれを上回ることを目標にします」と語る。

 時代は移り変わり、嵯峨野観光鉄道を取り巻く市場環境も変化してきた。年を追う毎に外国人客が増加し団体客の3分の1を占めるまでになった。また京都縦貫自動車道の開通以来、トロッコ亀岡駅からの利用も増加した。

 一方、気象の変化も著しい。万全の体制で安全対策に取り組んできたが、昨今のゲリラ豪雨が心配だ。

 「安全第一を目的に、暗くて点検しにくいトンネル内での不慮の事故を防ぐため、木製の枕木を三本おきにコンクリートでできたPC(プレストレストコンクリート)枕木に変える補修工事等を実施しています」。こうした保線作業を続けながら、様々な営業企画にも取り組んできた。

 嵯峨トロッコ駅構内にある「ジオラマ京都JAPAN」をより多くの人々に興味を持ってもらえるように一角をガラス張りにし、外から「見える化」を図ったり、山鉾巡行をジオラマで再現したり、鉄道写真家の清水薫先生の写真展を開くなど、お客様にもっと喜んでいただける企画に取り組んでいる。またレンタサイクル事業に力を入れて案内業務を見直しアクセスの利便性を高めたりして、トロッコだけでないテーマパークとしてのあり方を模索してきた。

 そしてこの春、嵯峨野観光鉄道は25周年の節目を迎えた。それとほぼ同時にJR西日本が運営する「京都鉄道博物館」が4月29日にオープンした。「地域を巻き込む営業活動で新たなステージに昇りたい。各々が連携し、嵯峨野・嵐山、そして京都の多彩な観光資源を活用して相乗効果を出せれば。今年中には『京都鉄道博物館』と弊社がタッグを組んで鉄道イベントを企画する予定です。これらを通じてお客様へのオンリーワンのサービスをつくりだし、地元の人々と手を携えて成長する観光鉄道会社でありたいと考えます」と語る。

 嵯峨野観光鉄道はいま、新たなステージに向かって歩みだしている。